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駐マレーシア日本国特命全権大使
四方 敬之


 

 
 新年 明けましておめでとうございます。

 会員の皆さま方におかれましては、お健やかに新たな年の初めをお迎えになられたこととお慶び申し上げます。ここマレーシアにて、常夏の太陽のもと、暖かく明るいお正月をお祝いできますことを嬉しく思います。

 昨年11月6日にマレーシアへ赴任致しました。私がマレーシアに初めて訪れたのは25年余り前のランカウイ島への家族旅行です。ゆったりとした空気が流れる、開放的で居心地の良い場所という印象を受け、いつか長期滞在してみたいと考えておりました。

 日本とマレーシアの両国は、1957年の国交樹立以来、一貫して強い友好の絆で結ばれ、一昨年12月に両国関係は「包括的・戦略的パートナーシップ」へと格上げされ、新たなステージに入りました。
 長年積み上げてきた深い友情と固い絆で結ばれている素晴らしいこの国と、日本との更なる友好協力の推進に向けて最前線で仕事ができることを、大変嬉しく、また光栄に思います。新たなパートナーシップの名に相応しいものとなるよう、2025年を通じ、更なる高みを目指して、文化、観光、留学、教育等を含めた幅広い分野の双方向の人的交流の促進に寄与したいと思います。

 本2025年はマレーシアがASEAN議長国となり、「包摂性と持続可能性」というテーマの下で、地域全体の方針を導く舵取り役という非常に重要な役割を担うこととなります。これに伴い、両国間の人の往来も更に活発化することが見込まれます。このようなタイミングで大使として貢献する機会を得たことに感謝しつつ、気を引き締めて取り組んで参りたいと思います。

 マレーシアには約1,600社を数える日系企業が積極的にマレーシアに投資するなど、確固たる経済関係が構築されています。更なる貿易投資促進を通じて、両国の経済がより発展するように努めて参ります。また、在留邦人の皆様による日本の文化や魅力の発信、マレーシアの方々との交流は、両国を結びつける絆をさらに強くし、友好親善をより深化させることに貢献しています。
 今後とも、在留邦人の皆様と大使館とが手を取り合い、ともに両国の友好関係の促進を進めていくことができればと思いますので、引き続き、お力添えをいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

 本年も日本大使館は、在留邦人の皆様の安全と安心の確保を第一に、適時適切な情報発信等に万全を期して参ります。また皆様の当地での生活が常に快適なものとなるよう充実した領事サービスを提供出来るよう努めて参ります。

 最後に、皆様の御健勝と御多幸、そして一層の御活躍を心から祈念いたしまして、新年の御挨拶とさせていただきます。

 
 

 

今月の写真<正月飾りと書道作品>


今月の表紙写真は、正月飾りの門松と新春の書道作品。

洋室やマンションにも調和する可愛らしいこの門松は、2024年のKL日本人会チャリティバザーに出品されたオリジナル作品である。当会会員さんによる手作りで、縁起が良いとされている松、竹、南天、獅子頭、それにバティックをあわせ、マレーシアで迎えるお正月にぴったりな飾りに仕上がっている。

松は常緑樹であることから生命力の象徴とされ、長寿を願う縁起物。竹は成長が早いことから生命力や繁栄の象徴とされ、まっすぐに伸びる性質や風にも負けない強さなどから固い志の象徴と捉えられている。獅子頭は厄除け、邪気払いの願いが込められており、赤色は火に通じる陽の気が強いとされ、陰の気を追い払い幸運を引き寄せる最強色と考えられてきた。南天(ナンテン)は「難を転ずる」と連想され、葉はお節料理のあしらいとしても使われる。

そんな縁起物を集めた門松を玄関や門前に飾るようになったのは室町時代で、その由来となった門に松を飾る文化「小松取り」は平安時代にまでさかのぼるという。

そして書道作品は、KL日本人会の一般書道部で指導されている下田真希子先生が書かれた2025年新春作品「慶賀光春」である。最近はテレビの影響か、また書道の楽しさが見直され、ちょっとしたブームになっていると聞く。この素晴らしい作品は、1月11日 (土) のKL日本人会新年会で一般書道部の作品として展示予定。是非会場で実物の迫力と繊細さを確かめていただきたい。

 

1884年 (明治17年) のクアラルンプール       


明治末・大正期のマラヤ における日本人  前編

 クアラルンプール日本人墓地は2024年で開設125周年を迎えた。JCKLニュースレターでは、2019年に日本人墓地開設120周年の特集を組み、墓地の歴史を紹介した。また同時期に、パハン州ベントンで日本人墓碑発見の地元新聞の報を受け、それに伴う調査の様子も紹介した。
 今回の特集は、こうした日本人墓地に眠る人々が生きていた時代にさかのぼり、先人たちの足跡を概略的に知ろうと試みるものである。新たな年を迎えたこの機会に、過去のマラヤ1)在住日本人に思いを巡らせることとしたい。

KL日本人墓地開設120周年特集 2019年3月号 
パハン州ベントンで新たに発見された日本人墓碑 2020年6月号

現在のクアラルンプール日本人墓地

 日本では幕末の開国以来、ハワイへの政府主導の移民政策に始まり、北米、南米、中国大陸、そして東南アジア、南洋諸島へと海外移住者が増えた。マラヤ・北ボルネオには、世界の他地域に比べると突出した数ではないものの、数千人規模の日本人が在住していた。
 19世紀末から20世紀初めにかけて、シンガポール・マラッカ・ペナンは海峡植民地(Straits Settlement)とされイギリスの直轄領となっており、またそれ以外の地域もクアラルンプールを首府とするマラヤ連邦州、マラヤ非連邦州、ジョホール王国、北ボルネオ、サラワク王国等とされ、いずれもイギリスの保護領となっていた。
 明治末・大正期のこの地域における日本人はどんな人たちであったのか。
 クアラルンプール日本人会『クアラルンプール日本人墓地―写真と記録と改修事業―』、原不二夫『英領マラヤの日本人』などに詳しく書かれている2)
 一次資料としては、WEB公開されている「外務省外交史料館」3) の「戦前期外務省記録」のマラヤ関連史料を利用した。また、シンガポールに1902(明治35)年から35年以上在住した日本人西村竹四郎医師の記録 4)によって在住者の生の声を参考にした。
 先行研究や史料から日本人の足跡をたどり、当地域の様子と在住日本人の概要について探ってみよう。


1) ここでは、基本的に「マラヤ」は19世紀末から20世紀のイギリス支配下のマレー半島とシンガポールを示す。
2) 個別研究論文としては、清水元が戦前期のマラヤにおける日本人人口の分析によって日本人社会の変遷を明瞭に描き出している。マラヤの主要産業であるゴム栽培関係の日本人の歴史に関しては、柴田善雅らの分析に詳しく書かれている。また、山崎朋子『サンダカン八番娼館』は東南アジアに渡ったからゆきさん達の足跡をたどるルポルタージュで彼女たちの人生を一般人に伝えた。
3)「外務省外交史料館」https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/index.html
4) 西村竹四郎『シンガポール三十五年』東水社  昭和16年

 

 ① マラヤの日本人の職業・人口概要


 マラヤの日本人の職業と人口の変遷については、清水元の分析5)に詳しく書かれているため、以下概要を引用する。
 1907~1936(明治40~昭和11)年にかけてのマラヤ・北ボルネオ在住の日本人人口のグラフを参照する。調査が開始された1907年には、日本人人口は合わせて2,000人足らずであったが、わずか十数年で4倍の8,000人を数えるまでに増加した。


5) 清水元「戦前期シンガポール・マラヤにおける邦人経済進出の形態―職業別人口調査を中心として―」(『アジア経済』XXVI-3、アジア経済研究所、1985)

 

(清水-1985)のグラフを元に作成

  〈景気に比例する日本人人口〉 

 この期間における日本人人口の第1のピークは1919~1920(大正8~9)年で8,000人を超えた。これは、第1次世界大戦による日本の対東南アジア貿易ブーム期に対応している。その後1923(大正12)年のボトムまで減少する局面については、1920年から始まった戦後反動不況に照応している。人口が再び上昇し続け、1929(昭和4)年には第2のピークを迎え再び8,000人を超えている。これはゴムの国際価格等景気の回復期にあたっており、その後の人口減少は、世界大恐慌期(1929~1933年)に対応する。総じて日本人人口の増減は景気の波動に対応していたといえる(清水-1985)。

  〈女性人口が多くを占める〉

 図1が示すように、1915(大正4)年まで女性人口は男性人口を上回っており、総人口に占める女性の比率は1907~1915年で50%以上を示し、1908(明治41)年には77.8%の多さを示している。その多くが「からゆきさん」といわれる「海外出稼ぎ」の女性性労働者であった。初期日本人社会の職業構成表1のうち「娼妓等」の女性の数がそれを裏付けており、こういった大量の日本人女性の性労働者がこの地域に存在したことは、アジアのイギリス領植民地において認められていた公娼制度と無関係ではなかったと考えられている。図1の女性人口が減少した1920年は、シンガポール政庁がマレー半島全域にわたる廃娼を断行し、それに呼応してシンガポール駐在日本領事館と在留日本人代表とが日本人女性の性労働廃止を決定した時期である。しかし数字がそのままの実態を示してはおらず、廃娼令が出された後にも潜伏して営業する性労働者がかなり存在したとされる(清水-1985)。

表1 初期日本人社会の職業構成(マラヤ) 単位:人

      娼妓等   貸席・倶楽部、料理屋   旅・下宿   理髪・髪結    雑貨商   呉服・太物商    売薬業   会社員・銀行員* 
1907(明治40) 752  266  83  35  100  24  ー 
1908(明治41) 1,078  194  107  35  83  50  30  ー 
1909(明治42) 1,489  (91)  83  53  92  63  46  ー 
1910(明治43) 1,628  82  95  44  133  ー  57  ー 
1911(明治44) 1,646  94  111  60  95  67  57  18 
1912(明治45) 1,626  106  118  76  176  ー  77  20 
1913(大正2) 1,679  97  119  91  121  77  77  36 
1914(大正3) 1,681  (30)  170  102  138  78  83  45 
1915(大正4) 1,781  144  159  136  194  62  82  106 
1916(大正5) 1,745  165  185  149  279  69  97  144 
1917(大正6) 1,912  135  132  127  299  63  44  172 
1918(大正7) 1,693  123  147  144  399  13  51  220 
1919(大正8) 1,580  132  99  116  350  56  40  136 
1920(大正9) 1,136  41  42  60  138  17  30  1,136 
1921(大正10) 86  39  65  101  154  21  29  1,478 
1922(大正11) 209  119  81  101  147  19  526 
1923(大正12) 276  20  91  87  121  19  865 

(清水-1985)の表を元に作成 (注)*事務員、店員を含む
 

  〈正業者中心の社会へ移行〉

 図1をみると、1915年には男性人口が女性人口を上回る。表1の職業構成のうち「会社員・銀行員」の男性人口が増大を開始するのは、第1次世界大戦中のことである。1914(大正3)年には45名を数えるに過ぎなかったが、翌年には2倍以上となり、1920年、1921年にはそれぞれ、1,136人、1,478人とピークを迎えている。
 マラヤの日本人社会は、当初「からゆきさん」を中心に形成されており、それをとりまく男性の主要な職業とは、貸席・倶楽部、旅・下宿、理髪・髪結、呉服・太物、売薬商などであった。1920年の廃娼令を機に、彼らの人口が減少し、反して「会社員・銀行員」を職業とする男性人口が増加することになった。1920年を画期として初期日本人社会の衰退と、マラヤへの日本資本主義の本格的関与が開始されることが確認される。企業の会社員やゴム栽培業など正業につく人たち中心の日本人社会が形成されていったという(清水-1985)。

KL日本人会図書室のマレーシア歴史コーナーの書棚

 

 ② 日本人職業の詳細 ~1910年代マラヤ各州の様相~

  〈少ないクアラルンプールの情報〉

 マラヤのなかでもシンガポールは、この地域の経済・行政の中心地であり、住民人口が多く、日本人の人口も最も多く、職種も多岐にわたったことがわかっている。またシンガポールには日本領事館が置かれ、日本外務省との間で文書通達や照会等が行われ、現在残っている戦前期外務省記録もその地域を中心とするものである。
 一方でクアラルンプールをはじめとするマラヤ連邦等の地域の情報は管見の限り多くない。それゆえその地域の日本人像を明らかにするのは容易ではない。しかし1910~1916(明治43~大正5)年の「海外在留邦人職業別人口調査一件」には、通常省略されることが多いクアラルンプール等の人口調査が記録されており、広くマラヤ各州の日本人人口や職業についてもわかる。よって、この時期を切り取り、マラヤ・北ボルネオ在住日本人の姿を具体的数字とともに探ってみることにする。

ー戦前期「外務省記録」とはー
外交史料館所蔵史料の主要なものである。
外交活動にともなう在外公館との往復電報・公信類をはじめとする貴重な史料が、外務省創立以来第2次大戦終結までの約80年にわたり、約4万を越えるファイルに整理・編さんされている。
アジア歴史資料センターのホームページでは、同ファイルをインターネットで閲覧することができる。(外交史料館HPより)

  〈マラヤ各州・北ボルネオの日本人人口〉


表2 マラヤ・北ボルネオ在住日本人人口 6)(1910・1914・1916年) 単位:人

  1910年  1914年  1916年   参考  1921年英領馬来人口調査 7)
 シンガポール   1,215   2,310   2,763   42万5,912 (市内35万1,909) 
 ペナン   207   373   389   30万4,335 (市内14万1,424) 
 マラッカ   60   121   130   15万3,522 (市内3万3,273) 
 ジョホール州 (バッパハ、ジョホール河沿岸)   115   932   1,149   28万2,234 (ジョホールバル市内 1万5,312) 
 ネグリセンビラン州 (スレンバン)   241   376   434   17万8,762 (スレンバン1万7,272) 
 セランゴール州 (クアラルンプール)  559   739   803   40万1,009 (クアラルンプール8万424) 
 ペラ州 (イポー)  518   843   830   59万9,055 (イポー3万6,860) 
 パハン州   31   159   151   14万6,064 
 トレンガヌ、ケダ、クランタン州   16   240   92   80万1,614 
 サラワク国       76   
 北ボルネオ (サンダカン)        270   
 ブルネイ国     16   16   2万5,451 
 統計   2,962   6,260   7,103   335万8,454

( )は主要在留地として注記があった地域名

 1916年、最も日本人人口が多いのはシンガポールで、そしてジョホール州、ペラ州、セランゴール州と続く。1910年から1916年にかけて、日本人人口はほとんどの地域で上昇しており、ほぼ1.5~2倍強で人口が増えている。例えば、シンガポールは1,215人から2,763人、セランゴール州では559人から803人、ペラ州では518人から830人へと増加している。ジョホール州については、115人から1,149人へと激増しているが、これは後述するように、大多数の日本人ゴム栽培業者がジョホール河沿岸に集中した結果である。


6)「5.欧米領事/新嘉坡」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13080336700、海外在留本邦人職業別人口調査一件 第九巻(7.1.5.4_009)(外務省外交史料館)ほか同調査一件16・17巻、「28.英領馬来ニ於ケル人口表送付ノ件 自大正十一年十月」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13080465400、在外内外人ノ戸口調査雑件 第四巻(7.1.5.10_004)(外務省外交史料館)より作成
7) 全人口に対する日本人の割合は、シンガポール2023年0.53% 1921年0.7%、マレーシア2023年0.06% 1921年0.15%である。この数字は100年前のマラヤにおける日本人の密度を捉える指標となるだろう。 1921年のデータは「4.在亜細亜南洋各館」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13080407100、海外在留本邦人職業別人口調査一件 第二十二巻(7.1.5.4_022)(外務省外交史料館)

  〈日本人の職業〉

 次に1916年・1926(大正15)年の日本人職業の内訳をみる。表3・表4は従事者数が多い順に示したものである。特徴的な職業について見てみよう。
 1916年の日本人社会の職業構成は前述のように、からゆきさんを中心としたものである。
 1926年になると、「娼妓」が職業名称上は大幅に減少している8)。対して、会社員、家事被傭人が増えたことが特徴的である。
 このうちマラヤ各州の会社員は、ゴム農園等の農業企業の従業員を含むことが指摘されている。また、家事被傭人の数が1920年廃娼令の後急増したことから、「娼妓」からの名称上の転向が推測されるという(清水-1985)。

<セランゴール州 (中心地クアラルンプール) の日本人職業 全紹介(1916年)〉
医師  歯科医  ゴム栽培業  雑貨商  写真業  理髪業  旅宿業  売薬業  人力車販売業  洗濯業  飲食店  店員  雇用人  大工職  商業  外国人雇用人  自動車業  染物職  労働者  仕立職  無職  賎業者  雑


表3 1916年マラヤ・北ボルネオ在住日本人職業  従事者数順 9)

  シンガポール  ペナン  マラッカ  ジョホール州  ネグリセンビラン州  セランゴール州  ペラ州  パハン州 トレンガヌ州他 サラワク国  北ボルネオ 
日本人人口   2,763人   389人   130人   1,149人   434人   803人   830人   151人   92人   76人   270人 
 1位 賎業者  賎業者  賎業者  ゴム栽培業  賎業者  賎業者  賎業者  賎業者  賎業者  ゴム栽培業  賎業者 
 2位 商業 活動写真業 売薬業 労働者 ゴム栽培業  ゴム栽培業  写真業 ゴム栽培業  雑貨商  賎業者  外国人被雇人
 3位 ゴム栽培業 写真業 歯科医 賎業者 洗濯業 写真業 雑貨商 雑貨商 椰子栽培業 雑貨商 ゴム栽培業
4位 雑貨商 雑貨商 雑貨商 農業 珈琲店 飲食店 ゴム栽培業 珈琲店 売薬業 歯科医 雑貨商
5位 会社及び銀行員 旅館業 洗濯業 大工職 写真業 旅宿業 自動車業 養鶏業 錫鉱業 農業 大工職

・職業名は史料上の表記。「賎業者」は「娼妓」と同義。
・「トレンガヌ州他」欄はケダ・クランタン州を含む。


8) 1926年娼妓  シンガポールに67人、ジョホール州に22人、マラヤ連邦・非連邦に410人、北ボルネオ7人
9)「25.新嘉坡」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13080371100、海外在留本邦人職業別人口調査一件  第十七巻(7.1.5.4_017)(外務省外交史料館)


表4 1926年マラヤ・北ボルネオ在住日本人職業  従事者数順 10)

  シンガポール ペナン ジョホール州 ネグリセンビラン、セランゴール、ペラ、パハン、トレンガヌ、ケダ、クランタン州 北ボルネオ、サラワク国
日本人人口 3,002人 171人 1,683人 2,268人 687人
1位 会社・銀行員 家事被傭人 会社・銀行員 芸妓・娼妓 会社・銀行員
2位 漁業労働者 会社・銀行員 家事被傭人 家事被傭人 家事被傭人
3位 家事被傭人 理髪業 大工・左官・石工 会社・銀行員 ゴム栽培業
4位 和洋服裁縫 履物・雨具・雑貨販売 履物・雨具・雑貨販売 ゴム栽培業 農場労働者
5位 芸妓・娼妓 料理・飲食・席貸業 ゴム栽培業 料理・飲食・席貸業 森林業

・マラッカは記載なし、マラヤ連邦・非連邦州、北ボルネオ・サラワク国はそれぞれ一括掲載されている。

※従事者数は以下リンクを参照
 表3  PDF 版
 表4  PDF 版 


10)「1.在印度及南洋各館」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13080414900、海外在留本邦人職業別人口調査一件 第三十二巻(7.1.5.4_032)(外務省外交史料館)

  〈からゆきさん〉

 1916年の日本人職業の中で最も多く目を引くのが「賎業者」である。日本人の絶対数が少ない地域も含め、マラヤ・北ボルネオのあらゆる所に「賎業者」、いわゆる「からゆきさん」と呼ばれる女性の性労働者が散在していた。
 日本人社会初期の女性の墓碑がクアラルンプールをはじめとするマレーシア各地の日本人墓地やシンガポール日本人墓地に数多く見られる。クアラルンプール日本人墓地の戦前の被葬者270余名のうち7割が女性で主にからゆきさんとされている11)
 からゆきさんとは、狭義には明治時代から第2次世界大戦にかけて、日本から南方へ出稼ぎに行った女性の称である。1880年代のクアラルンプールにはチャイナタウンに日本人娼館があり、日本の貧しい両親の元に仕送りをしていた女性が多く滞在したといわれている12)


11) クアラルンプール日本人会『クアラルンプール日本人墓地―写真と記録と改修事業―』1990年
12) 同上

  〈ゴム栽培業〉

 表2・3・4にあるように、ジョホール州の日本人人口は1910年には115人を数えるのみであったが、わずか6年で10倍の1,149人に、1926年には1,683人にまで増加した。表3から、ジョホール州で最も多くの日本人が従事した職業はゴム栽培業であり、849人を数える。他地域と比べても、突出した数である。ジョホール州では1910年には日本人ゴム栽培業者は17戸男女合わせて57人に過ぎなかったが 、たった数年間で急激にゴム栽培業へ進出しているのである。
 また、表3からシンガポールでも150人近く、ネグリセンビラン州、セランゴール州においても各80人以上と、いずれも相当数の日本人がゴム栽培業に従事している。マラヤの大部分において、正業の中では、ゴム栽培業者が日本人にとっても主要産業であったことが職業内訳一覧により改めて確認できる。

 さて柴田善雅の分析13)によると、マラヤのゴム園は1895(明治28)年以後始まり、イギリス資本を中心にシンガポールからマラヤ縦断鉄道沿線の半島西側に集中した。日本人がこうした既存ゴム栽培事業に割り込むにあたり、半島西側には既に栽培に適したまとまった土地が少なかったこともあり、日本の財閥や南方ゴム栽培に関心を寄せた独立的企業が土地租借料の安いジョホール河沿岸に集中したという。時期的には第1次世界大戦前に進出が始まり、第1次世界大戦中(1914~1918年)にドイツ利権取得の機会もあり、また1916年以降のゴム価格の反騰という投資環境の改善の中で、日本国内の余剰資金の放出として多額の投資が実現した。企業設立は、1916年~1919年に集中したという。
 他方、日本人個人零細ゴム園も1909(明治42)年以後に急増した。個人ゴム園主として多数の女性の名前も見出され、中には、からゆきさんとして得た財を元手にし、ゴム園主へ転化した例がありえたとされている。
 また、ゴム栽培事業の特徴として、南方事業家との関わりがある。日本と風土・言語において大きく異なるゴム栽培現場の経営のため、専門的な経営者が必要である。当初は在来の個人ゴム園経営者が法人ゴム園の現地支配人となることで、経営現場を管理する役割を担ったという(柴田-2001)。
 以上のことから、1916年ジョホール州のゴム栽培業に従事した日本人が多い理由として、ジョホール河沿岸に主要日系ゴム園が参入した時期であったことと合致する。

 さて、ゴムの相場にはシンガポール在住日本人も一喜一憂した様子が記録されている。シンガポールに1902年から35年以上住んだ西村竹四郎医師の記録に目を移すと、1910年には「南洋はゴム企業の黄金時代となった。西洋の資本も、日本、支那の資本も」馬来半島に流れ込んで入ったといい、ゴム事業が活気を帯びていることを示している(西村P107)。1916年になると、ゴム価格が急騰し活気づいたシンガポールの様子が記され、「何といっても新嘉坡の生命はゴムである」と記録されている(西村P168)。一方ゴム価格が下落すると市況は不振に陥り、1928~1930(昭和3~5)年の記録には、日本人経営者がゴム園を手放し、一時の花やかな様子は見る影がないと、ゴム価格に翻弄される関係者の様子を描いている(西村P311)
 このような景気変動の各局面で生き残ったのは、資本系統の安定した大会社のゴム園であり、零細個人農園の多くは景気の波に翻弄され消えていったとのことである(清水-1985)


13) 柴田善雅「日系ゴム栽培事業の勃興と第1次世界大戦期の拡張」(『大東文化大学紀要』第39号、2001年)

  〈会社員〉〈雑貨商〉

 表3の1916年日本人職業のうち雑貨商はどの地域にも多い。また、シンガポールでは会社員・銀行員という肩書の日本人男性108人がいることが商業都市たる特徴でもある。表4の1926年には会社員がさらに増加した。会社員と雑貨商は彼らの出自に違いがあり、本来個別に紹介するのが相応しいが、いずれも景気に大きく左右される点において共通する部分もあるため、ここでは同一項目で述べることとする。
 ここでいう会社員・銀行員とは、「三井物産」「三菱商事」「台湾銀行」「横浜正金銀行」「華南銀行」「日本郵船」「大阪商船」「山下汽船」の各支店・出張所の従業員など、商社員や大手会社の社員を示すという(清水-1985)
 対して、雑貨商は南方事業家といえる、この地域に根差した個人経営者であると考えてよいだろう。
 第1次世界大戦を契機とし日本人会社員の数が増えたことは前述した。それでは、当時のシンガポール経済と会社員、雑貨商の様子を西村医師の記録から探ってみよう。1915年には、戦争の影響で欧州商品のシンガポールへの輸入が止まり、その代替品として日本商品を輸入するようになったという(西村P166)。1916年にも、多くの中華系商人が日本商品を輸入し、日本の貿易商も日本商品を売り込むため、シンガポールへ出張員を派遣し、支店を新設し販路を拓いたと記されている(西村P179.180)。1918(大正7)年12月28日記録では、第1次世界大戦によって日本の商品がシンガポールに浸透し動かぬ地位を築き、それに伴って商社などの関連企業の会社員が増加し、日本人人口の増加に繋がったとしている。第1次世界大戦は日本商品の質が改良され購買者から信頼を得、市場に浸透するようになった画期であったという(西村P188.189)
 こうした叙述は、前述図1の第1次世界大戦中の東南アジア貿易ブームによって1919~1920年の第1のピークへ向け日本人人口が増加し続けた状況と合致する。
 一方で、第1次世界大戦後に訪れた不況では、1921(大正10)年、倒産する日本人商店が数軒あったことが記されている(西村P211.212)。さらに不景気の煽りを受け、大手会社の社員にも影響があった。1922(大正11)年には、戦後不況により会社の人員削減がおこなわれ、帰国者が多くなったという(西村P231)。日本人人口は1923年まで減り続け(清水図1)、会社員の数が1922年に大幅に減少しているデータ(清水表1)と合致する。

  〈売薬業・売薬行商〉

 売薬業はかなり需要が高く不可欠な職業であったようで、1916年にはマラヤの10地域に日本人売薬業者が居た14)。西村医師の記録によると、これより少し前の時期に、売薬業がどのような活動形態から始まったかが記されている。1904(明治37)年には「南洋における邦人発展史に、見逃すことの出来ぬ「日本売薬行商時代」がある」という。これは各地に入り込み薬を売り歩く行商のことである。日露戦争以前は日本人間だけで消費されていた薬が、日露戦争後マレー人や中華系の人々にも浸透したという。西村医師の元で働いていた書生は、小さいカバンに売薬を詰め込み、医師の少ない奥地へと行商にでかけて薬売りとして持て囃されたと記されている(西村P60)
 また、富山の薬売りやそれを代表する会社「広貫堂」は、明治中期以来、売薬の海外輸出に力を入れ、海外移住者を追いかけるように中国、東南アジア(シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナム)などでも売薬事業を行ったといわれている15)。日本の伝統的な売薬業がマラヤを含む海外へ展開していたことが知れる。


14) 表3には一部しか掲載できなかったが、「25.新嘉坡」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13080371100、海外在留本邦人職業別人口調査一件 第十七巻(7.1.5.4_017)(外務省外交史料館)には職業の詳細がある。
15) 幸田浩文「明治・大正期の薬事法制と富山売薬会社「広貫堂」」(『現代社会研究』20号、東洋大学、2020年)

 

【小括】
 1907年に2,000人足らずであった日本人人口は、1920年代になると8,000人を超えた。初期日本人社会にはからゆきさんたちが足跡を残したが、その後は正業者を中心とした社会へと変化したと言われている。人口は景気に左右され増減し、在住者の記録からも第1次世界大戦中の好景気と戦後の不景気により大手会社の派遣社員数が増減した様子や、ゴム産業の発展に伴い日本人が事業に参入する過程、ゴム価格に翻弄される在住日本人の様子がわかった。
 また、1916年のクアラルンプールをはじめとするマラヤ各州の日本人人口と職業内訳を概観し、主要な職業について紹介した。

 

上野周子(編集委員)


 

 

JICAだより
遠くて近いパレスチナ問題 in マレーシア


JICAマレーシア事務所次長 稲垣良隆

 「今世界で勃発している紛争と言えば、何が思い浮かびますか? 真っ先に思い浮かぶのは、ロシアによるウクライナ侵攻でしょう。メディアによる報道や、ウクライナ出身の有名スポーツ選手による訴えといった形で情報に接する機会が多い上、日本の物価上昇にも多大な影響を及ぼしており、日本人にとって身近に感じる大きな世界的問題だと思います。ただ、マレーシアにいると、もっと良く耳にする紛争があります。それは、イスラエルとパレスチナ間の武力衝突です。1948年に勃発した第一次中東戦争に端を発する両国間の争いは、現在に至るまで衝突を繰り返しており、2023年10月より再び衝突が激化しました。ムスリム国家であるマレーシアは、同じくイスラム教徒が大多数を占めるパレスチナを支持する姿勢を強めており、クアラルンプール内でもパレスチナ(ガザ)問題に対する大規模な抗議デモが行われたりしています。皆さんの居住地区や勤務場所の近くでデモが行われることもあり、パレスチナ問題を身近に感じる機会もあったのではないかと想像します。そして、実はJICAはガザ地区に出張所があったのですが、イスラエルからのミサイル攻撃に巻き込まれ、出張所が損壊してしまいました。幸い、事務所内には誰もいなかったため、死傷者はいなかったことが救いでしたが、そこで働いていた現地スタッフの中には自宅を破壊され、生活拠点を失った方もいます。

破壊されたJICAの出張所。
JICAの看板はそのまま残っている。

 さて、一見JICAマレーシア事務所とパレスチナ問題はあまり関係なさそうに見えますが、実は関係があるのです。JICAマレーシア事務所は、マレーシア外務省、マレーシア農業研究開発研究所(MARDI)と協力して、2012年度よりパレスチナ政府をマレーシアに呼び農業研修を実施しています。MARDIには、1997年から2004年までJICAが技術協力を行った経緯があります。JICAの技術協力などを経て、MARDIは技術や知見を提供する側になり、現在はパレスチナへ農業技術を教えているのです。

 2024年11月には、熱帯果樹の作物管理についての研修を2週間、MARDIで行いました。研修では、パレスチナ研修員16名が、グアバの接ぎ木の仕方や土壌管理などの農業技術を、実際に手を動かしたりして学んでいました。このように、日本がマレーシアと協力し、マレーシアにパレスチナ政府を呼んで研修をする、という技術協力を「第三国研修」と言い、日本とパレスチナの関係のみならず、日本とマレーシアの関係強化にも貢献するというメリットがあります。それに加え、情勢が悪化していて訪問できないような国に対する協力として大変有効……なのですが、実は今回の研修、現地情勢が悪化しすぎて研修員が都市間を移動できず、2023年には研修を行うことができなかった経緯があります。2024年には無事に研修できて、ホッと一安心しました。

農作業を実演するMARDI職員とそれを真剣に見ているパレスチナ研修員

 このパレスチナ向け農業研修を行っている途中に、在馬パレスチナ大使から、研修員やMARDI関係者などとともに日本側関係者が食事に招かれたことがあります。一国の大使からのご招待ということで、私はスーツを着つつやや緊張して参加したのですが、研修員の皆さんはTシャツの方もいて、食事が始まったと思ったら早々に席を外してタバコを吸いに行くなどで席はところどころ空席に……。パレスチナ大使が挨拶されるとなった途端に皆さん戻ってきましたが、パレスチナって結構フラットな文化なのかな、と変に感心してしまいました(もちろん、研修員の方々だけを見て、パレスチナ全体の文化を推し量ることはできませんが)。パレスチナ大使からは、日本政府やマレーシア政府への感謝が述べられ、続けてパレスチナで亡くなった方々への哀悼の意が示されました。あれだけ騒がしかった(もしくは席を離れて不在だった)パレスチナ研修員の皆さんも、一気に静まり険しい表情になった様子を見て、パレスチナの悲惨な現状を垣間見たような気がします。

 日本にいると、距離的にも文化的にも遠く感じるであろうパレスチナ問題。JICAは、マレーシアという強力なパートナーとともに、今後もイスラエルとパレスチナの共栄共存に向けた協力を行っていきます。

 

 

 
今月のローカル食材​
<クレイポット豆腐>
 
 


料理講習会講師 ちはる


 

クレイポット(土鍋)は、調理したお料理をそのまま食卓に出せる手軽さがあり、温かさを長くキープしたいお料理によく使われます。クレイポットチキンライスと呼ばれる炊き込みご飯やクレイポットヌードルといったお料理だけでなく、バクテーやフィッシュヘッドカリーなどにも欠かせないアイテムで、マレーシアには実に多くのクレイポットメニューがあります。特に中華料理では「温かいものを温かいうちに食べること」が大前提にあるからです。

今回の豆腐料理はたっぷりのお野菜にお肉、そしてキノコも入れ、具だくさんで栄養バランスの良い一品にしました。白ごはんと一緒にどうぞ。家庭にある調味料で作れますので、挑戦しやすいメニューです。

🍳  材料 2人分

  • 木綿豆腐 1丁 230g
  • 鶏肉(モモ肉) 100g
  • 白菜 200g そぎ切り 
  • 干し椎茸 25g
  • スナップエンドウ 6本
    (今回はサヤエンドウを使用)
  • ヤングコーン 4本
    斜め半分に切る
  • 小口ネギ 30g
    4~5cm幅にカット
  • 赤チリ(お好みで) 1本
  • 人参 少々
    飾り用に薄切り
  • ニンニク 4粒
  • 生姜 4切れ

調味料
オイスターソース 大さじ2
砂糖 小さじ 1/2
ローカル醤油 大さじ1
白胡椒 適量
肉の下味
酒・塩・白胡椒 各適量
調理油 適量


 

ローカル豆腐
いろいろな種類があるが、スーパーマーケットで手に入るパック入りの木綿豆腐が便利。絹豆腐は油で揚げる際に崩れやすいので注意したい。

オイスターソース
普通のオイスターソースでもよいが、写真の製品は椎茸の旨味がプラスされておりこの料理に最適。


🍳  下準備

豆腐
適当な大きさに切り分ける

豆腐の水切り
キッチンペーパーでくるみ、手で少し押さえながら水気を切る

鶏肉
皮を取り除き、食べやすい大きさに切ったら、酒・塩・白胡椒(各適量)を揉みこんでおく

干し椎茸
300mlの水につけておき、柔らかくなったら適当な大きさに切る。硬い石づきの部分は捨てる(戻し汁は後で使用)

🍳  作り方

①フライパンに油を入れ豆腐の表裏を各2分ほど、色付くまで揚げる。側面はフライパンを少し傾け、油を寄せて揚げるとよい

②豆腐を皿に取り出す。フライパンの油は少しだけ残し、次の③で使う

③ニンニクと生姜を香りがたつまで炒めたら、鶏肉を加えさらに炒める

④鶏肉に軽く火が通ったら、椎茸とチリ(お好みで)を入れて数分炒める

⑤白菜とヤングコーンも入れ、数分炒める

⑥調味料をすべて入れる

⑦椎茸の戻し汁をすべて注ぐ

⑧蓋をして中火で5分ほど加熱する

⑨水で溶いた片栗粉を入れとろみをつけ、揚げた豆腐、スナップエンドウ、ネギ、人参をのせる

⑩蓋をして30秒ほど火を通したら完成!

⑪クレイポットで作る場合は、③から土鍋で調理するとよい

 

*このシリーズで紹介して欲しい食材や調味料・スパイス等あれば、事務局までお寄せください。office@jckl.org.my

 


 


今月の漢方
<血の道症と漢方3:血虚 当帰芍薬散>

 

 


国際中医薬膳師/中医実習生  坪井良和

 前回に続き「血の道症」という女性のライフステージ(生理、妊娠、出産、授乳、更年期)に処方される代表的な処方の2つ目。「血虚」という体の三大要素「気、血、水」の「血」が足りないことからくる不調によく処方される「当帰芍薬散」について。


血虚けっきょ」と当帰芍薬散トウキシャクヤクサン

 「当帰芍薬散」は当帰トウキ芍薬シャクヤク川芎センキュウ茯苓ブクリョウ蒼朮ソウジュツ沢瀉タクシャからなる調合である。

 このうち、当帰と芍薬は非常に代表的な組み合わせで、およそ「血」にかかわる症状用の処方には必ずと言っていいほどみられる代表的な生薬。当帰はセリ科の植物の根を薬用としたもので、日本でも奈良県を中心に栽培され、昨今では新鮮な葉の部分も料理などに使われている。独特な香りがあり、いわゆる「漢方薬臭さ」というのは実は高麗人参ばかりではなく当帰に由来する場合も多いのではないかと思う。それだけ治療用としてだけでなく、普段使いの薬膳や滋養強精用の漢方スープや薬用酒などにもよく使われている。芍薬は花を観賞する芍薬の根の部分。当帰と芍薬はともに血を補う効果があり、貧血だけでなく便秘や皮膚疾病にもよく使われ、女性の疾病にはなくてはならない生薬である。川芎も、当帰と同じくセリ科植物の根であり、行気(気の流れをよくする)の働きに優れている。この三薬の組み合わせは「血というものは量が十分にあることが大事だが、それがスムーズに流れていることも同様に欠かせない要件である」という考え方に基づいている。

当帰芍薬散
左上から時計回りに 芍薬、当帰、川芎、蒼朮、茯苓、沢瀉

当帰

茯苓には、加工方法によってさまざまな名前が付けられている。皮付きで厚くスライスしたものもあれば、写真の雲苓のように薄いもの、キューブ状に整えられたものもある。茯神は茯苓が松の根を包み込みながら生育したもので、不眠やイライラによく処方される。茯神ほどではないものの、茯苓自体にも精神安定と睡眠の質向上に効果がみられるので、実にいろいろな場面で使われる生薬である。

 茯苓、蒼朮、沢瀉はいずれも水の代謝に関した生薬。茯苓は霊芝レイシと同じサルノコシカケ科。キノコの仲間で松茸のように松の根元に生える。常緑樹である松は日本だけでなく東洋文化圏全体で不老長寿の象徴として非常に親しまれてきた。その根元に生える茯苓も古くは「伏霊」とも書かれ、代表的な効能は利水(体内の余分な水分を排出する)であるが、同時に体に必要不可欠な津液シンエキという潤い成分を生じさせる効能もあるという不思議な生薬。茯苓のなかでも、松の根を巻き込んで育ったものは茯神とも呼ばれ、茯苓本来の作用に加え、精神を安定させる効果にも優れており、さらに珍重されている。蒼朮と沢瀉の排尿という直接的な利水の効用に優れたふたつの生薬との併用で、血と気の不足から体に滞留している余分な水分の排出を促しながら、必要な潤い分を補う組み合わせだ。

 「当帰芍薬散」は「余分なものの排出を促しながら不足を補う」という非常にバランスの取れた処方であるので、中年期に差し掛かり代謝機能そのものが徐々に落ち始め、でも仕事に家庭に休みなく動き続けている年齢層には非常に適していると言えるだろう。男性にももちろん処方されるが、月経、出産や授乳によって「血」を消費し続ける女性は、男性に比べて血の不足「血虚」から不調が始まることも多く、よく処方されるのである。

 「気為血之帥(気は血の元帥である)、血為気之守(血は気を守っている)」という言葉があるが、これは「血の流れる方向を導くのが気の役目であり、またエネルギーである気が散じてしまわないような器としての役割を血が果たしている」という意味がある。「気」がスムーズに流れないと「血」が滞留し四肢末端の冷え性や顔色の悪さ、生理不順、頭痛といった症状が出る。「血」が足らないといずれは「気」というエネルギーが保てなくなり、やる気が起きない、疲れやすい、食欲がない、といった症状が出る。「血」の生成が不足→「気」の不足→「血」が行き届かない、もしくは食物からの「血」と「気」の生成そのものが停滞する、といった悪循環に陥ると、慢性的に疲労を感じる、病気になりやすいといった「気血両虚」という状態になり、回復に時間がかかることになるので、そうなる前に養生を開始することが大事だ。

 前回の気滞は気の流れが滞ることから始まる不調で、今回の血虚は血の不足から生じる不調だが、ふたつのまったく違った症状や原因ということではなく、その人の生まれ持った体質や長年の生活習慣、環境の急な変化などで「気」もしくは「血」の出やすいほうの症状が現れているので、慢性的な不調に悩まれている方は、自身には主にどちらの症状が出ているのかチェックしてみるのもよいだろう。

 

  気滞 血虚
状態  気がカラダの中に滞っている状態 血が不足している状態
症状  ため息をよくつく、イライラしやすい、怒りっぽい、お腹が張りやすい、喉がつかえるなど 顔色が白い、めまいがする、肌に艶がない、目が疲れやすい、皮膚が乾燥している、髪の毛がパサつく、爪が割れやすいなど
対処方法  運動したり、好きなことをしてリラックスを心掛ける。辛いものやアルコールはほどほどに。 刺激の少ない、消化の良い食事を心掛ける。生野菜や果物よりは穀物、タンパク質を多めに。

血虚とむくみ、冷え性
「血」の量が不足すると「気」が行き届かなくなり、末端や下肢のむくみや冷えが生じやすくなる

次回は、気滞と血虚が慢性化して凝り固まった状態の「瘀血」の状態についてお話ししよう。
 

 
 

第30回 新年会のご案内  (会員限定)


 1月 11日 (土)  16:00~20:00 KL日本人会会館にて

令和七年の新年会は、アクロバットアクション込みのライオンダンスから始まり、中国伝統芸能の「変面」ショーを開催します。日本のお正月を感じていただけるように「鏡開きと乾杯」「かるた大会」「もちつき体験」などもご用意しており、ステージでは新春琴演奏や部・同好会の発表会などを行います。
また、駐車場スペースには日本食を中心とした屋台が多数並びますので、皆様お誘い合わせのうえご来場ください。

なお、新年会当日1月11日 (土) は、日本人会の駐車場が終日閉鎖となります。また準備期間の1月8日(水)~12日(日)は駐車場にテントを設営・撤去するため、駐車スペースに制限がありご不便をおかけします。予めご了承のほど、よろしくお願いいたします。
 

プログラムと会場レイアウトのダウンロード


イベント内容 会場レイアウト


新年会実行委員会

 


 


12月14日 (土)、日本人会会館にて恒例のクリスマス会を開催しました。1,100人を超えるご来場があり、大人から子どもまで楽しめる多彩な企画やパフォーマンスが行われ、多くの方が一足早いクリスマスを楽しみました。
当日ボランティアとしてお手伝いいただいた帝京マレーシア日本語学院の学生の皆さん、ありがとうございました。
 

  会場の様子 

エントランスの写真スポットでパシャリ

無料配布のWelcomeポップコーンがパーティ気分を上げてくれます

会場のどこかにいるサンタさん。見つけるといいことがあるかも…!

バルーンアートに大行列。カラフル&キュートな作品たち
 

  工作・体験コーナー 

heart キラキラ透明石けん作り

手のひらサイズの石けん。6色から好きな色を選べます

いろんなものを溶かしたり混ぜたり…まるで理科の実験のよう

heart サンキャッチャーキーホルダー

真剣な眼差しで取り組む皆さん。気泡が入らない様に色付けするのが結構難しい…

終わったらしばらく放置して乾燥。帰る頃には透明感のある綺麗な仕上がりになります

heart クッキーデコ

親子や友だち同士、和気あいあいとした雰囲気が印象的でした

色とりどりのチョコやトッピングでデコレーション。個性が溢れます

heart 竹とんぼ工作

シールや油性ペンで自分好みにデザイン

完成したら外で飛ばしてみよう! ボランティアの皆さんがレクチャーしてくれます

heart 砂絵

台紙のシールをちょっとずつ剥がしながら、砂で塗り絵をしていきます

砂ならではのキラキラと立体感がクリスマスにピッタリ!

heart ドローンで遊ぼう

コントローラーをうまく操作して十数メートル先の的を目指します

第2ホールを広々と使い、昨年よりもダイナミックに飛ばせました

  パフォーマンス 

ミュージックアンサンブル
オリジナル楽曲や、プロジェクターを駆使したアイデア溢れるステージが印象的でした

バラードバンドサークル
歌、ギター、ピアノのトリオ編成でしっとり大人のバラードを披露

箏曲(琴)演奏
和楽器で奏でられるクリスマスソングは実に新鮮。つい聴き入ってしまいます

日本舞踊部
殺陣、扇子やお花などを使った踊りまで様々なプログラムが盛り込まれていました

キッズヒップホップダンス
息のあったクールなダンスには、会場から度々歓声が上がっていました

KL フラ ハイビスカス
緩やかな音楽と共に優雅に踊るフラガールの皆さん。キラキラした笑顔に癒されます

マジックショー
驚きの連続で思わず身を乗り出す子どもたち。観客参加型で、会場の熱気はピークに!

観客の中からマジシャンに選ばれ、サポートすることになった土井さんのコメント
「突然マジシャンからステージに呼ばれ、いろいろなマジックをサポートしているうちに私の左手首から腕時計が消えていてビックリしました。なんと、私の腕時計はいつの間にかマジシャンの手首に付けられていたのです。どのタイミングで外されたのか不明で、彼に指摘されるまで全く気づきませんでした。観客の誰一人としてそのトリックに気づいていなかったようです。今回は客席で観るだけでなく、身をもってマジックを体験し楽しませてもらいました。
ショーの後、周囲の友人から『土井さん、マジシャンの仕込みの人なの?!』と疑われました…。信じて下さい!私はサクラではありません!!(笑)」

  来場者のコメント 


 

ヒップホップダンスに出演した 成田あこちゃん、吉江ほのかちゃんと妹のありさちゃん
「はじめてのステージで緊張しました。次の舞台は新年会、年上のお姉さんたちみたいにうまく踊れるように頑張ります! 出番前のクッキーデコ、キーホルダー作りも楽しかったです」


 

森さん、田原口さん
「クッキーデコや石鹸作りは、大人の私たちでもワクワクしました。サポートしてくれた帝京学院の学生さんにも感謝します。またホールでのパフォーマンスがどれも工夫されて美しく、全て鑑賞しました。ラストのマジックショーでは、子どもたちの目が輝いていて最高に盛り上がりました。幅広い世代が楽しめる企画ばかりで、とても良いイベントでした」

 


 
はぐくみ会活動報告 <クリスマス会>

 

12月4日(水)のはぐくみ会では、15名のお子さんのご参加があり大変にぎやかにクリスマス会が開催されました。
今回は最初に自由あそびや絵本を読んだりする時間が設けられました。クリスマスのおもちゃ作りでは、空のボトルにキラキラしたものを入れ、視覚でも楽しめる作品が出来上がりました。その後サンタさんが登場し、一人ひとりにプレゼントが手渡され、お子さん達はちょっと不思議そうな顔をしながら受け取っていました。最後はみんなで写真を撮り、忙しいサンタさんは手を振りながら帰っていきました。
クリスマスソングやお部屋の飾りも相まって、楽しいクリスマスの雰囲気を感じることができました。
 

クリスマスの絵本を読みました

キラキラが入ったおもちゃを製作

不思議なサンタさんが登場しました

みんなでサンタさんと記念撮影
 

 

今後の活動(予定) 10:00~11:30  
1月8日 (水) お正月
2月5日 (水) 節分

詳細はこちら

参加方法 : 
当日始まる前に事務局窓口にて参加チケットを購入 (事前申し込みは不要) 

 
 

 

えっ!マレーシア 
<タンジュン・セパで Made in Malaysia「Kopi」に出会う >


タンジュン・セパのランドマーク Lover’s Bridge (情人橋)
桟橋の上で釣りを楽しむ人も多い


 タンジュン・セパ(Tanjung Sepat)はセランゴール州にある海辺の町で、KLから車で約1時間半の距離にある。タンジュンはマレー語の「岬」で、この町はマラッカ海峡を臨む漁師の村だったそうだ。また、近郊には様々な農園があり、のんびりとした田舎町だが、今はフィッシュボールなどの加工工場やキノコ農場などもあり、観光客も増えている。
 KLからタンジュン・セパに向かう途中のセパンでは、ドラゴンフルーツ農園をよく目にする。道路の脇には新鮮なドラゴンフルーツが販売されており、KLより新鮮なものを安価に購入できる。
 マレーシアの港町で中華系労働者のために生まれた肉骨茶バクテーも、ここでは海鮮肉骨茶が人気で朝早くから多くの人で賑わっており、中にはお昼前に閉店するところもある。海鮮以外にも手作りのパオやコーヒー、近くの農園で栽培したカカオから作ったチョコレートなども人気だ。

ドラゴンフルーツ屋台

ドラゴンフルーツ農園

シーフードバクテー

情人橋近くにある酒瓶の塔

キノコ農園の展示館

ココアアートギャラリー

色づいたカカオの実

 

 英国植民地時代のマレーシアでは、コーヒー栽培が盛んだったと聞く。やがてコーヒーはゴムの木栽培に代わって、今では生産量はあまり多くない。

 タンジュン・セパの住宅街の一角にある店 Joo Fa Trading では、裏庭にあるコーヒーの木や焙煎場を案内してくれた。農園ではロブスタ種を栽培しており、昔ながらの焙煎窯を使い、家族で協力し生産しているそうだ。3時間ほど焙煎した「ホワイトコーヒー」、マーガリンを加え5時間ほど焙煎した「ブラックコーヒー」があった。豆のまま購入することもできるが、パウダー状の個包装(インスタントコーヒーではない)も人気がある。このパウダー状のKopiは日本のブラックコーヒーよりも真っ黒で濃厚に見えるが、ほんのりとした甘みがあって思ったほど濃くなく、そのままでも飲める。しかし、多くの人はこれにミルクや砂糖を加えて飲んでいる。

二度焙煎して風味を付けるKopiの豆

まだ青いコーヒーの実

昔ながらのコーヒー焙煎窯

ティーバッグタイプのローカルコーヒー

 マレーシアのコーヒー 「Kopi」 の特徴は二度焙煎することである。一度目は普通に焙煎し、二度目は砂糖やバター、マーガリン、場合によってはパームオイルを加えて焙煎する。こうすることで砂糖がカラメル状に変化、コーヒー豆が黒く変色し独特の香りがするKopiとなる。マレーシア産のコーヒー豆の90%はリベリカ種(リベリカ種は世界で流通しているコーヒーの1%にも満たない)で、マレーシア産ブランドの「エレファントコーヒー」(ジョホール州産)はこれである。このコーヒーはKL日本人会のテナント、ブンガラヤでも販売している。

 京都芸術大学通信課程芸術教養科の入江祥子さんの研究、「コピティアム」華人がもたらした喫茶文化ー の論文によると、コピティアム(Kopiはマレー語のコーヒー、ティアムは福建語で店という意味)の歴史は19世紀から20世紀初頭までさかのぼり、マレーシアがまだ国として独立していない時代に、中国の海南島からマレー半島にわたってきた人々によって形成されたそうだ。1960年代になるとマレーシア全土に広がり定着し、現在に至っているとのことだ。

KLチャイナタウンKwai Chai Hongには海南コーヒー店の壁画がある。1960年頃の店舗が描かれていると思われる

 KLの街を歩くとコピティアムがよく目に入る。古くからのスタイルやおしゃれなカフェなど様々である。歩き疲れてひと休みするには嬉しい環境だが、メニュー表にはいろいろなKopiが記載されていて「?」となる。なので、Kopiの種類を調べてまとめた。注文時に参考になればよい。
 

 Kopi (コピ) 砂糖とコンデンスミルク(加糖練乳)をたっぷり入れたもので、非常に甘い。
 Kopi O (コピオー) コンデンスミルク抜きで砂糖のみ入ったもの。加糖ブラックで、かなり甘い。
 Kopi O Kosong (コピ・オ・コソン)  「Kosong」はマレー語で「ゼロ」という意味で、砂糖・ミルクなしの「ブラックコーヒー」だが、飲んでみると甘みがある。
 Kopi C(コピ・シー)           砂糖とコンデンスミルクではなくエバミルク(無糖練乳)が入ったもので、最初から混ぜあるのでミルクティーのような色。若干甘さ控えめ。
 Kopi C Kosong(コピ・シー・コソン) Kopi C から砂糖を抜いたもの。
 Kopi Susu (コピ・スス)                    牛乳が入ったもの。マレー語で「Susu」は「牛乳」という意味だが、日本の牛乳と違い脂肪分が多い。
 Kopi・Cham(コピ・チャム) Kopi と紅茶とミルクをミックスしたマレーシア独特のもの。
 Kopi・Tarik (コピ・タリ) コップに Kopi、ミルク、砂糖を入れて高く揚げ、別の空のコップに落としながら混ぜるスタイルで、引き伸ばしているように見える。「Tarik」はマレー語で引き伸ばすという意味。少し泡立つ。
 White Coffee (ホワイトコーヒー) イポー発祥のコーヒー。Kopi に比べるとわずかに苦みが抑えられている。

 

JCKLニュースレター
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